アイルトン・セナ没後20年

 史上最強のドライバーは、現在のところミハエル・シューマッハーが最有力候補だろうと思う。
 史上最高のドライバーは、という問いであれば、ミハエルはもちろん、ジム・クラークやグラハム・ヒルなどの名前も上がり、なかなか議論はまとまらないでしょう。

 しかし、もし「史上最速のドライバーは誰か」という問いであれば、おそらく圧倒的多数の人はこう答えるのではないでしょうか。それはアイルトン・セナだ、と。
 

 
 セナがF1で活動していた時期は、私の小中学生時代に重なります。最近の若い人たちには想像つかないかもしれませんが、その当時の日本におけるF1人気は圧倒的であり、フジテレビのF1中継の視聴率はゴールデンタイムで20%超、深夜帯でも10%を記録したと言われています。無論、その頃の私は子供でしたから、視聴率の話なぞ特に興味はありませんでしたが、今でもおりにふれて流れるT-SQUAREの「TRUTH」をOPテーマに始まるその番組が、子供たちを惹きつけたのは言うまでもありません。
 もちろん私も、ブラウン管を通して映し出される音速の狂宴・F1サーカスに釘付けだった一人。当時の自分の中でのアイドル、あるいはヒーローだったのは、ポプラ社の全集で読んだシャーロック・ホームズと、そしてサーキットを駆け抜けるF1ドライバーたち。
 その中で、ひときわ大きく輝く巨星がアイルトン・セナだった。
 誇らしげな赤白のカラーに塗られたマクラーレン・ホンダのマシンを駆り、並み居る強豪ドライバーたちを尻目に、当たり前のようにポール・トゥ・ウィンを決めていくセナの姿は、まさに音速の貴公子。いまだにその原理が解明されていない「セナ足」を武器に、コーナー脱出からのストレートの伸びでグングン差をつけていく様は、「こんな化け物には絶対勝てない」と思わせるに充分。雨でも降ろうものなら、もはや敵なし。セナさえいなければ、間違いなく最速の名を争ったであろうドライバーたちのなんと多かったことか。地上最速の称号は、アイルトン・セナのために大切にとっておかれたようなものでした。
 そんな有様だったから、実はあの当時私が応援していたドライバーはセナではなく、数々のライバルたちの一人だったナイジェル・マンセルでした。1番すごい人より、2番3番の人を応援してしまうところが、私の意地の悪いところですね。
 大英帝国の愛すべき息子と言われたマンセルは、決して安定して速いドライバーではありませんでしたが、ツボにはまった時の恐るべきスピードは、セナをも凌駕するものがありました。豪快で不安定で荒っぽくて不運、そんな彼のスタイルはまさに暴れん坊。好きなドライバーにマンセルを挙げる人は、きっと多いでしょう。
 でも、マンセルをことさらに応援していたのは、やはりセナあっての事だったと思います。だってライバルというのは強大であればあるほど、ドラマチックなのだから。
 アイルトン・セナという、同時代で図抜けて速いドライバーを相手に果敢に勝負を仕掛け、時には殴り合いの喧嘩にまで発展する。それはセナが偉大だったからこそ、マンセルのドラマとして光り輝くものとなる。そしてセナが速いからこそ、遠慮無くマンセルに声援を送ることが出来たのだと、今ではそう思います。
 マンセルのみならず、セナの最大のライバルだったアラン・プロストも、あるいはネルソン・ピケも、ゲルハルト・ベルガーも、セナがいなければあれだけの熱を持ったドラマを生み出すことは出来なかったのではないでしょうか。
 当時のF1はまさに黄金期。きらめく才能たちの魅せるグランプリは何よりも魅力的。F1が最も幸せだった、最も楽しかった時期だったかもしれません。今でも足しげくサーキットに通う習慣は、あの頃に植え付けられた感動ゆえ。「いつか鈴鹿で生のF1を」という子供の頃の願いを初めて達成したのは、既にいい大人になった後でしたが、その時の喜びは言葉にしがたいものがありました。
 しかし、初めて生で見たそのサーキット上に、アイルトン・セナの姿はありませんでした。なぜなら子供の頃から数えて年数が経ちすぎていたから、という当たり前の理由ではなく、1994年5月1日のサンマリノGP、アウトドローモ・インテルナツィオナーレ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ(通称イモラサーキット)のタンブレロコーナーで、彼は帰らぬ人となってしまったから。
 94年当時、私はちょうど高校1年生でした。高校に入学したてでしたし、夜は妙に早く寝る習慣がつきつつあったので、サンマリノGPを生中継では見ていません。このため、アイルトン・セナの訃報を最初に聞いたのは、母の口からでした。
「ねぇ、セナが死んじゃったって」
 短い一言でしたが、一瞬、何を言っているのかわからなかったことを覚えています。
「そんなわけないじゃん」
 返したのはそんな言葉。それ以外に言いようがありませんでした。セナが死ぬなんてありえない。2日前にルーベンス・バリチェロが大事故を起こし、前日にローランド・ラッツェンバーガーが死んだ。そんな凶事に見舞われた事故続きの渦中にあっても、セナが死ぬわけがない。
「でもテレビでそう言ってるし……、事故だって」
 そう言ってテレビを指さす母に促されてニュースを見ると、確かにそんなことを報じていました。しかし、それでもなお「いや、そんなはずないじゃん……」としか言えなかった。
 他の誰がどういう事故を起こしても、"あの"アイルトン・セナがクラッシュで死ぬなんて考えられない。それほど、セナの名前は絶対的だった。
 でも、事実として、彼は死んでいた。音速の貴公子と呼ばれた稀代の天才ドライバーは、あの日、誰にも到達できない音速の向こうに逝ってしまった。それがどれだけの衝撃だったか……。
 彼の死が世界に与えた衝撃と、F1に与えた影響は計り知れない。全世界でトップニュースとして報じられ、数々の悲しみの声が伝えられ、母国ブラジルでは国をあげての国葬が営まれた。
 何よりも、F1の安全性が飛躍的に向上した。
 あの事故が起きるまで顧みられることなかったドライバーたちの安全と命。それらが何よりも優先して守られるべきものとなった。時にレースにスリルを求める人達からの批判を受けながらも、F1はマシンとサーキットの安全性向上に努め、そして、あの悪夢の日から20年、ただの一人もレース中のドライバーの死亡事故を起こしていない。
 彼の死は、あの事故は起きるべきではなかった。それでもなお、あの事故が後のF1にもたらしたものはとても大きい。不世出のスターは、そのかけがえのない命と引き換えに、F1にスポーツとしての安全性を残していった。そのことを、今を生きる我々は忘れてはならない。
 彼が帰らぬ人となったタンブレロの脇には、今、セナの銅像が建てられています。
 うつむいて、さみしげに一人、かつて命を落としたコーナーを見つめるように建てられたセナの銅像。
 その目にもう二度と悲劇を映さないために、天才と呼ばれたドライバーが見た音速の夢を現代のドライバーたちが安心して追いつづけられるために、アイルトン・セナの名前と悲しみは、後世までずっと記憶されるべきでしょう。

平成26年5月1日

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