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6月, 2014の投稿を表示しています

閑古鳥のなく頃に

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「本当に儲かってるのか?」と思うようなお店ってよく見かけます。中核都市部ではまぁそう見かけないんですが、ベッドタウンなどのいわゆる衛生都市部、もしくは田舎では頻繁に見かけます。商店街なら多少わからないでもないですが、商店街ですらない場所にある、ぼろっちぃお店など見ると「大丈夫なの?」と思うことしばしば。誰が利用してるんですかね。 PENTAX K-5IIs + SIGMA 17-50mm F2.8 EX DC HSM  というわけで、写真は見るからにボロっちぃおもちゃ屋さんです。上部の店名看板は見るからに褪せてますし、ドアにあしらった「いらっしゃいませ」の文字は「っ」が剥がれ落ちて「いら しゃいませ」になっている。直しなよ!と思わず言いたくなること請け合い。  このお店、私が小学生の時には既にこの有様でした。「昔は小綺麗な店舗だったんだよ」なんてことは一切なく、本当に当時からこのさびれかげんだったんです。ろくに照明もきいてない店内は始終薄暗く、コンクリート打ちっぱなしの床は冷たい印象の上に埃っぽくて、おまけに店主は陰気なじいさん。ショーウィンドウに飾られたおもちゃの箱は日焼けて色があせている始末。なぜ潰れなかったのか、そしてなぜ今でも潰れていないのか、さっぱりわからない。  そりゃね、私の子供時代はキン消しブーム、ラジコンブーム、ミニ四駆ブームなど、おもちゃ屋さんがよだれを垂らすブームが寄せては返す時代だった。初代ファミコンからリアルタイムでテレビゲームの進化を体験した世代のド真ん中でもあり、現代的な子供が没頭する趣味が次々に発生した時代だったので、おもちゃ屋さん的にも美味しい時代だったはず。それは否定しない。  しかしちょうどその頃、このお店の目と鼻の先にもう一つ、それこそ「小綺麗な」という表現がピッタリのおもちゃ屋さんがもう一件あったんですね。  店名は「ふじや」だったはずですが、ショーウィンドウに女の子が大好きなぬいぐるみを飾り、自動ドアに入ったすぐのところにファミコンソフトのケース、奥の方にはマニア心をくすぐる模型やらカードゲームやらを並べ、レジには若い女の子のアルバイトという、完璧な布陣で固めた……つまり、かこ玩具店では太刀打ちできそうにない、立派なおもちゃ屋さんだったんです。これは勝負にならない、いずれかこ玩具店はシャッターが降りた

強さを支えるもの

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 にわかサッカーファンを大量に生み出しているサッカーW杯も10日が過ぎましたが、日本代表の一次リーグ突破は極めて難しくなっている状況らしく、ニュースの調子も「勝たなければならない!」ではなく、「せめて1勝」という色に置き換わってしまっています。  普段観ていないので、日本がどのような実力であるかというのはよくわかっていないのですが、様々な記事を拾い読みする限り、勝てない、勝ち切れない原因は「自分たちのサッカー」というものができていない、というところに尽きるようです。  自分たちのサッカー、というのが何なのか私にはわかりません。知識がないからです。ただ、プレースタイルを一貫できていないことは諸々の記事からわかりますし、そうであるなら、選手か、あるいは監督をはじめとするスタッフか、その両方かに、自分の力、強さに対する自信がないのであろう、ということには察しが付きます。  W杯は準備期間が長く、地区予選を含めて4年間を費やすようですが、その間に各代表チームは練習を積み、試合を重ね、自分たちの力量に合ったプレースタイルを確立し、それぞれの目標に向かって研鑽と経験を積む。  本戦であるW杯はその積み上げた成果を示す場であり、すべての準備はここまでに終えておかなければならない。逆に言えば、ここまでに準備できなかったことは、示したくても示せないということ。プレースタイルが一貫できないということは、その「準備できなかったこと」をやろうとしていることに他ならず、それでは確かに勝てないだろうと思います。  もちろん、様々な事情はあるのでしょう。準備できていたことが思うように実行できない、通用すると思っていた実力が跳ね返される、広いと思っていた道は予想外に狭く、見通せると思っていた景色は遮られて先も見えない。そうならいっそ、今までのことを捨ててもいいじゃないか、と。  しかし、やはりそれは無理な願いなのでしょう。実力以上のことができないように、実力外のことだって人間にはできない。自分たちにできるのは準備していたことだけであり、それ以外のいかなるものをどれだけ渇望しても、ないものは決してそこには現れない。  茨の道であっても、先の見えない暗闇であっても、たとえ一歩先は谷底であったとしても、やってきたことを信じて地道に一歩ずつ進むしかない。  残酷ともいえるこの泥臭さは、常に

にわか叩くな、いつか来た道ぞ

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 サッカーW杯で世間はもちきりで、それにのって何となく日本戦を見たりしちゃってるにわか視聴者です、すみません。ファンというにはおこがましいので、視聴者。にわか視聴者です。  で、たいがいこういう時に玄人さんがいうのは「にわかファンばっかりで困る」みたいなことです。「サッカーそのものは好きじゃないんだろ」とか、「ちゃんと試合内容も見ろよ」とか、そんな感じの。今日も渋谷のスクランブル交差点で、日本が負けたにも関わらずお祭り騒ぎになってたとかなってないとか、おっぱいを触ったとか触ってないとか、そんな話も出てまして、やっぱり「そんな奴らはファンじゃない!」というようなのがコメントされてたりとかツイートされてたりとか、よく見かけたもんです。  でもね、にわかファンは大事にしなきゃいけませんよと言いたい。いや、おっぱい触る痴漢を認めろって話じゃなくてね。そりゃー私も触れるもんなら触りたいけど、そういう話じゃなくてね。  にわかファンがいる内が華なんですよ。これがいなくなったら一気呵成に人気は下降します。にわかファンがいなくなって地上波放送まで打ち切られたF1ファンの私がいうんだから間違いない。にわかは大事に。ここ重要。  テレビ局とか広告代理店はにわかファンを狙って宣伝を打ってきます。これが多ければ多いほど、そのコンテンツのメディアの露出は多くなる。間違っても、スタジアムに足繁く通う良心的なファンや、ウェブで戦術についての批評を繰り広げるマニア相手ではない。  にわかがガクンと減って、スタジアムとウェブ上でしかファンの存在が確認できなくなれば、普段はW杯でなくとも放送される日本代表戦だって放送されなくなるでしょう。  それが証拠に、同じ四年に一度の開催でしかないオリンピックの競技のうち、いくつが普段から放送してますか? 軽薄なファンがいない競技というのはそんなものです。  あるいは、W杯が大々的に放送されていた裏で、世界三大レースの一つであるル・マン24時間耐久レースが開催されていたことを、日本人の何%が知っていたでしょうか。このイベントはCS放送のJ SPORTSでスタートとラストの各6~7時間を放送してましたが、地上波では放送されてません。モータースポーツファンにとっては垂涎のコンテンツでさえ、地上波のメディアからそっぽを向かれればこんなもんです。  

視界を覆う木々

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 今日は一枚の写真を中心にシンプルに。 あいち健康の森公園のベンチ PENTAX K-5IIs + SIGMA 17-50mm F2.8 EX DC HSM  写真は愛知県大府市にある、あいち健康の森公園に設置されているベンチ。ここに座っても、目の前に見えるのは樹だけ。何のためにこんなところに……と思いきや、よく見てみると右側の隙間から池が見えてます。  そう、最初はここは池を見渡せるようにと設置されたベンチだったんですね。ところが開園から17年が経ち、当初は低かった木々が成長してしまい、視界を遮ってしまった。  普通なら木を切って視界を確保するところですが、ここの公園はそうしなかった。生い茂るに任せて、結局池は全く見えなくなってしまっている。きっと当初は恋人たちが水を見ながらロマンチックに語らっていた場所は、なんだか圧迫感のある緑が見えるばかりに。  なかなか奇妙な光景だったので、思わず写真に撮ってしまいました。暇な休日にはカメラをぶら下げてぶらぶらすることが多くなりましたが、たまにこんなへんてこな風景を見かけて楽しくなります。  さて、この様子を見て「木が邪魔じゃないかけしからん」と考えるか、「まぁ木なんだから伸びるよねいいんじゃない」と考えるかは人それぞれ。どっちが正しいとも、あるいは間違っているとも言い難い。どこを主に据えるか、何を重要視するかで変わってくる。  でも、ほんの少し主観的なことを言うとするなら、後者のほうがより「おおらかだ」と言われることはたぶん間違いない。  ――ところで今日は附属池田小事件から13年、秋葉原通り魔事件から6年だそうで、6月8日というのはずいぶん陰惨な事件の記念日として今後も繰り返し報道されそうです。  両事件とも、犯人の生い立ちがずいぶん取り沙汰されたものでした。そういう「犯罪者の過去」についての報道を嫌う向きも多いですが、彼らの過去から見えてくるものは多いように、私は思います。 2014年6月8日

都市の光の影

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 どこの都市でもそうだと思いますが、大通りに面した景色というのは存外につまらないもので、東京だろうと名古屋だろうと見た感じはそう変わらない。せいぜい道幅が広いとか狭いとか、ビルの高さが高いとか低いとか、その程度の違いでしかない。たぶん都市計画の際にとんがったものを排除するからでしょう。  ところが、ひとつ裏路地に入って行くと、とたんに面白くなってくる場合がある。表通りにはない、なにやら異質な空気が漂い始める場所。生々しい、人間の生活の匂い。整然とした表通りの街並みにはない、猥雑な魅力。こういった所にこそ、都市というものの素の顔がある気がして好きなのです。  しかし、都市の開発が進んでいくと、そんな裏路地すら追いやられてしまうことがあります。  例えば銀座。私が東京に住んでいた15年ほど前、アルバイトをしていた銀座の書店に通うために山手線有楽町駅を利用していたのですが、あの頃の有楽町駅近辺は、猥雑を絵に描いたような怪しい雰囲気漂う所でした。  高架に並んで建てられた汚いビルと、テナントに入っている小さなゲーセンや立ち食いそば屋、またその付近にある格安の定食屋とか天津甘栗の屋台とか、そういう様々なものが好き放題に並んだあの場所。  私がよく利用したのは立ち食いそば屋で、大方のその手の店にありがちな清潔とは言いがたい設備ではあったものの、300円か400円くらいで提供されていた穴子丼が物凄く大盛りで、当時劇団員でお金がなく、腹ペコだった私の胃袋をよく満たしてくれたのです。あるいは、三角巾のおばちゃんがいた格安定食屋は、たしか300円も出せば、焼き魚に目玉焼きのついた朝の定食が食べられたので、こちらも頻繁に訪れた覚えがあります。また、ビルの2Fにあったゲーセンに入ると、脱衣麻雀の筐体が何台も置いてあって、数少ない虎の子の100円玉を何度も献上したものです。  あるいは駅前でなくとも、有楽町駅から銀座四丁目の大通りに行くまでの朝の道は、人っ子一人通らない閑散とした空気の中、カラスがゴミ袋を食い破って散らかしていたり、ゆうべの酔客の吐き戻したあとが掃除もされずに残っているような有様。そうかと思えば、洒落たスーツを着た営業マンのような人がコンビニで買食いしていたり、ホームレスらしきお爺さんが空き缶をいっぱいぶら下げた自転車を引いていたりとか、まぁ銀座という単語から連想