世界はどこまでも繋がっていく「ガールズ&パンツァー 劇場版」感想

 久しぶりにアニメの話を。というか一年以上ぶりです。前回同様「ガールズ&パンツァー」、今回は劇場版の感想です。
 劇場で先行公開したOVAでもそうでしたが、やっぱり大画面で観るガルパンは格別です。月並みな言い方をすれば「迫力が違う」という5文字におさまりますが、何しろウリが砲撃と無限軌道の戦車戦ですから、その映像、その音、その演出、すべてがテレビの小さな画面とはレベルが違います。
 それに劇場版は120分という長時間で、たっぷり戦車道の真髄を魅せてくれますから、もう始終圧倒されっぱなし。冒頭からいきなり始まる戦車戦も豪速球でこちらの胸を射抜いてきますし、中盤からラストに至るまで続く長い長い殲滅戦でも、一部の隙も、欠片の無駄もなく、砲弾飛び交う戦車道に青春をかける少女たちの、その熱意と純粋さを観客に見せつけてくれます。
 そして、物語のキーポイントとなる事件を核とした、閉塞感に満ちたドラマシーン。いったいどのように打破するのか、もう無理じゃないのか……という緊張感と圧迫感が、嫌が応にもクライマックスでのカタルシスを予感させる。
 テレビ版からそうでしたが、ガルパンは王道のストーリーを盛り上げる演出が、抜群にうまいんですよね。シンプルかつ骨太なストーリーに、細やかな配慮が行き届いた絶妙の演出。「神は細部に宿る」を地で行く本作が、面白くないわけがない。

 ……と、まぁずっと外枠の賞賛ばかりしていてもどうかと思うので、少し突っ込んだ内容を。といっても、前にもそうだったように、考察なんていう大仰なものは書きません。ま、読書感想文みたいなものです。

 さて、劇場版の特徴としては、これまでに登場したキャラクター……、大洗女子学園はもちろんのこと、他校の主要キャラクターすべてが一堂に会する、オールスター戦の様相を呈しています。
 知っての通り、本作は主人公が所属する大洗女子学園戦車道チームだけでも、相当数のキャラを擁しており、ましてや他校の主要キャラまで合わせると、とんでもない数になります。おまけに劇場版で初登場となるキャラクターも含めると、もう笑っちゃうくらいの大所帯。普通、これだけたくさんのキャラを出してしまうと、見分けがつかなくなったり、おざなりになるキャラが出たりしそうなものです。
 しかし、本作は120分という限られた時間の中で、これら全キャラクターの"輝く瞬間"を、きっちり描ききっている。これには本当に驚きました。
 主人公・西住みほ率いるあんこうチームをはじめとし、大洗女子学園の面々、テレビ版では"負け役"を担わされざるを得なかった他校の生徒たち、本作で敵役を務める大学選抜の学生、はては彼女たちを裏で支える保護者や戦車道組織委に至るまで全員、これを120分の間で描ききっている。それも、観客である我々に「詰め込みすぎ」と一切思わせない濃密さで。

代表的だったのは、プラウダ高校のカチューシャでしょうか。彼女はテレビ版においては、負け役という役どころもあるにせよ、あまりかっこいい描写はされていません。可愛いという評価は圧倒的なものがありますが。
 なぜプラウダの隊長はカチューシャなのか。誰がどう見ても優秀そうなノンナではなく、カチューシャである理由は何なのか。「小さな暴君」などと呼ばれながら、なぜ彼女に皆がついていくのか。そして、なぜ(ラッキーはあったにせよ)前年度の全国大会を制することができたのか。
 本作ではその一端が垣間見えます。それは、ひとことで言えば「カリスマ性」。他の皆を惹きつけるカリスマ性という魅力が、カチューシャには備わっている。
 わがままは負けず嫌いの裏返し、意地っ張りなのは寂しがりの裏返し、乱暴な言葉の陰に、誰よりも熱く仲間を想う心を秘めている。隊長という役につきながら、自分を見失うほどの烈しさで。
 それを皆知っているから、「カチューシャ隊長のため」と、圧倒的な強敵の前に立ちはだかることを厭わない。ノンナが、クラーラが、ニーナが、アリーナが、カチューシャを守るために散っていく。彼女たちの献身さは、ひとえにカチューシャのことが好きだから。その情熱をカチューシャが知る時、彼女はまた一つ強くなる。
 隊長には一見不向きなカチューシャが、実はもっともプラウダの結束を強める動機になっている。もともと優秀なメンバーと強力な戦車が揃った強豪校。結束してしまえば鬼に金棒。プラウダの強さは、多分そういうところにあります。



 プラウダだけではなく、どの生徒たちの活躍も見所満載。OVAでは惨敗を喫していたアンツィオ高校の三人も、小さなタンケッテを駆って上を下への大車輪。空中楼閣での戦車戦は、世界広しといえども、歴史長しといえども、唯一彼女たちならではの見せ場だったでしょう。割り算が苦手でも、ジャンプに失敗しても、それでもアンツィオは弱くない!

 そして何より、テレビ版では最大の敵として君臨した、主人公の姉・西住まほ。手強い敵から一転、「頼りになるお姉ちゃん」「最強の援軍」として描かれることになり、当のまほにとっても、妹のみほにとっても、嬉しかったことでしょう。
 わずか8両で30両の、それも格上の相手に挑まなければならない恐怖のさなかに、駆けつけてくれた姉の姿。観客からしても「8両ではいくらなんでも……」から「この最強お姉ちゃんがいれば勝てる!」に変わった瞬間ですから、当事者のみほが、どれだけ安心したことか……。思い浮かべるだけでも胸が熱くなる。
 加えて、ドラマシーン中にも、激しい戦車戦の最中にも回想される、幼い日の幸せな記憶。いつも手を引いてくれた姉、いつも前を走ってくれた姉、自分の手本となり、自分の目標となり、ずっと憧れていた自慢のお姉ちゃん。その記憶が、最後の一撃を繰り出す動機を作った。
 いつまでも手を引かれるだけの、頼りない自分ではいられない。導かれるだけの幼い妹から、共に歩く一人の人間として姉に並びたい。
 クライマックスの瞬間、まほが見せた寂しげな表情。それは、みほがようやく姉の手から離れた瞬間でもあった(テレビ版終了時点では、みほはまだ姉の庇護下にあったと、筆者は思っています)。
 ラストシーンで、観客には聞こえなかった二人の会話。その内容は分からないけれど、二人の表情を見れば、それが満ち足りたものであったことははっきりわかる。まほもまた、成長した妹の姿に何かを思い、成長していったはず。お互いがお互いに影響し合い、切磋琢磨する、そんな姉妹に彼女たちはなっていくんじゃないでしょうか。

 テレビ版「ガールズ&パンツァー」で私が思ったのは、この作品は一人の少女が"自分ひとりだけの部屋"から扉を開け、広い世界へ一歩を踏み出していく、いわば、怖いと思っていた「他者がいる世界」への前進を描いたものだということ。それは「子供から大人への成長」あるいは「自立するとはどういうことか」と言い換えても良いです。
 そして劇場版は、踏み出した世界の中にいる人々との触れ合い。どこまでも広がっていく、どこまでも繋がっていく世界との触れ合いです。
 誰しも皆、様々な道を生きている。誰もが皆、様々な情熱を傾けている。ある者は大切な誰かのために、ある者は自分自身の居場所のために、ある者は毎日の生きがいのために、ある者は認めた好敵手との友情のために、ある者は寂れていく夢の場所のために、ある者はたったひとりの妹のために、かけがえのない青春という名の情熱を費やしている。
 手を引く手が背中を押す手に変わるとき、主人公の情熱は光の矢となって暗闇を駆け抜ける。それは誰かの夢を砕く銃弾であるかもしれない。されど、駆け抜けた先に、また新たな友情の花咲くこともある。

 ……この世は自分だけのものではない。思い通りにいかないこと、辛く苦しいこともたくさんある。でも、だからこそ、世界はこんなにも面白く、愛おしい。
 自分ではない誰かが数え切れないほどたくさんいて、それぞれが、それぞれの輝く瞬間を生きている。それを認め、また、自分も認められ、毎日は今日も回っていく。
 ガールズ&パンツァー劇場版が描くのは、ひとりの少女がひとりの女性へと成長する、その過程で出会う"世界の営み"。
 取り戻した日常と、これから作られる未来。たくさんの情熱に彩られた世界の営みは、きっと西住みほを、もっともっと素敵な女性へと変えていく。

 確かな予感を残り香に終幕する本作のエンディング。……まさに、傑作でした。

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