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大洗へ ~ガールズ&パンツァー聖地巡礼~

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  ガールズ&パンツァー を初めて観たのはそれなりに遅くて、去年の秋頃でした。特徴的なタイトルと「女の子が戦車で戦う」という大雑把なイメージ自体は知っていたのですが、特に理由もなく敬遠されており、たしか2013年春頃にAT-Xで再放送しているのを録画したままさらに数ヶ月間ほったらかしにし続けるという有様。10月のF1鈴鹿日本GPが終わった後しばらくした頃の暇つぶしに再生してみて、ようやく自分がえらい時間の損失をしていたことに気づくという体たらく。何はともあれ、少なくともここ10年では間違いなくベスト1の面白さで、すっかりハマっている現状であります。  さて、本編の面白さもさることながら、ガールズ&パンツァー(ガルパン)の名を一躍全国区に知らしめることになったのは、やはり本作の舞台となっている茨城県東茨城郡大洗町の町おこしプロジェクト。ナニコレ珍百景でも紹介されたため多くの人が知るところとなっていますが、町全体にキャラクターのパネル(立て看板)が設置され、商工会をあげて地域一丸で取り組む姿勢が話題を呼び、地元の祭りに10万人を動員することになったという、萌えアニメによる町おこし成功例です。おそらく「 らき☆すた 」と並ぶ、最良のケースの一つとして数えられるでしょう。  その大洗に、夏休みと称した一週間早い会社のお盆休みを利用して、ついに行って参りました。アニメの「聖地巡礼」なんて人生初です。もちろん、そこに何があるかというのは知識として知ってはいますが、先のブログにも書いたとおり、自分で行かなければ気が済まない性分です。知識と体験の間には決定的な差がありますから。若い頃は体験を知識で埋められるのではないかと考えたこともありますが、今さらそんな厨二病みたいなことは考えません。行かなきゃ、体験しなきゃダメです。  というわけで、地元愛知は知多半島から東名、首都高、常磐自動車道を経由して延々5時間、一度もSA・PAに止まることなく走り続けて大洗に到着。  朝8時半という妙に早い時間、サンビーチ駐車場に愛車のフィッたんを止め、一眼と トラベルガイド(http://www.amazon.co.jp/dp/4331252922) を手に、いざ大洗の町へ。まず向かったのは、駐車場からほど近い 大洗リゾートアウトレット 。こんな時間に営業なんかしてないのはわかって

チームオーダーを出すということ

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 2014F1ハンガリーGPは、様々なドラマが産まれた名レースでしたが、その中で、終盤の注目ポイントの一つであった、「メルセデスGPによるルイス・ハミルトンへのチームオーダー」から、F1史におけるチームオーダーについてのあれこれを書き連ねてみたいと思います。 チームオーダーにハミルトン「ショック」、ラウダはハミルトンを支持 http://www.topnews.jp/2014/07/28/news/f1/111086.html ハミルトン「自分はレースをするために雇われている。チームオーダーを聞くためじゃない」 http://www.topnews.jp/2014/07/29/news/f1/drivers/lewis-hamilton/111118.html ハミルトンがチームオーダーに従わなかったためにメルセデスAMGは優勝をライバルチームに明け渡してしまったのかもしれない。 ハミルトンも、チームオーダーには「正しい理由」があったのだろうと認めている。 しかし、チャンピオン争いをリードするロズベルグを追う立場のハミルトンは、ロズベルグを抑えたことでポイント差を縮めることができた。 「彼と同じレースをやっていたんだ」とハミルトン。「だから、チームがああいうことを僕に求めるなんて、ものすごくショックだった。彼が順位を上げられるようにしろだなんて」 「あれはちょっと変だよ」  さて、一口にモータースポーツと言っても様々で、四輪、二輪などのあからさまな違いの他にも、フォーミュラマシンかGTマシンかの違いや、1レースにつき1チームが何台のマシンを走らせるかとか、かなり多様に細分化されます。  その中でも、1チームが複数台のマシンを走らせるカテゴリにおいて問題となってくるのが、冒頭に挙げた記事にもありますチームオーダーの存在。特にF1においては昔からこのチームオーダーが物議を醸しておりまして、悲喜こもごものドラマがここから生まれています。

移動するもの

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 ガンダムは観たことないんですが、マクロスは初代を通して観たことがあります。  で、作中にバルキリーという、飛行機(ファイター)と人型ロボット(バトロイド)とそれの中間みたいなの(ガウォーク)に変形できる戦闘機が出てくるんですが、これについて以前に知り合いと話していたところ「どの形態が一番好きか」という話になり、その時に「飛行機型」と答えて訝しがられたことがあります。  彼曰く、普通の戦闘機なんかどこでも見られるのに、なぜよりによってそれなのか?と。バトロイドやガウォーク形態の方が、アニメならではの形で面白いじゃないかと。まぁそれについて否定する気はないんですが、それでも飛行機型の方が好きなんだからしかたがない。  どうも昔から「移動するもの」に憧れがあります。最も好きなのは自動車ですが、たぶん一番身近だったからでしょう。父親が乗っていたスプリンター・カリブの印象が強かったため、いまでもハッチバック車が形態として一番好きだったりしますし。  マクロスのバルキリーで飛行機型が好きなのも多分そのせいで、一番速く、一番遠くまで行けそうなファイター型がやっぱり好きなんですね。銃を持って戦ってるバトロイド形態は見せ場の一つだと理解はしますが、高速で飛行するファイター型のほうがやっぱり美しい。ひらひらとミサイルを避けて飛ぶ姿は、ガウォーク形態には絶対に醸し出せない色気があります。というかガウォーク形態は申し訳ないんですがカッコ悪いと思う。 中部国際空港にて PENTAX K-5IIs + SIGMA APO 120-400mm F4.5-5.6 DG OS HSM  高速で移動するものは、つまり、より遠くの、見たことのない景色を見させてくれる存在です。身近であるが故に気がつかない風景にも妙味がありますが、もっと遠くの、普段は見られない景色をたくさん見たいと思うのが人情。「なぜ生きているのか?」と問われれば、「もっと綺麗なものを見たいから」と答える程度には、自分の中でその欲求は強い。  写真や映像ではダメです。自分の目で見なければ、その風景を理解することはできない。だから、移動しなければならない。その風景を目で見て、その空気を自分で吸って、匂いをかぎ、熱を感じ、手で触れて、味わって、ようやくその場所に足を運んだといえる。Google EarthやGoo

上品ということ

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 上品に生きたい、というようなことを折にふれて思います。上品と言ってもハイソな感じのそれではなくて、なんといいますか、高潔な人格でありたい、もしくはそれに近づきたい、という意味。ひとことでいえば、品性よくありたい、ということ。  上品とはふつう「気品が良い」というような意味を持っていますが、もっと根源的な性根の部分で品よくありたいと思うわけです。……わかりづらいか。  食事を例に取るとき、一般的な意味での上品というのは、マナーが良いであるとか、食べ方が美しいであるとか、そういうことを指していると思うのですが、私の考える(志向する)上品はそれとは少し違っています。例えば食卓を囲むメンバーにマナーの悪い人がいた時、行儀のなっていない人がいた時などに、彼らに対してどう振る舞うか。そんな時、目くじらを立てて怒り出す人、表に出さずとも冷淡な感情を抱く人は、私にとっては下品な人です。そうではなく、許容しながらも穏やかにたしなめられる人、あるいは笑ってその輪に入れる人、そういう人こそが上品だなと思います。  あるいは人と意見が食い違ったとき。目を三角にして、口角泡を飛ばして、相手の意見を一切聞き入れずに、やり込めることにばかり心血を注ぐような人は、やはり下品だと思う。そうではなく、相手の言うことをよく聞き、理解し、その上で自分の意見を述べて、互いの落とし所を見つけられる人、そういう人が上品だと思う。  表面的なマナーや気品を超えた、"人格"としての高潔さ。それが私の考える上品の定義。受け入れる度量と、人を正すことのできる器量。穏やかな心持ちでそれらを内に秘める人こそが、高潔な人格であると思う。そのような上品さを持った人間に私はなりたい。いつの頃からかはもう忘れましたが、たぶん20代前半くらいの頃から、そう願うようになりました。  もちろん、凡人の私にとって、それは一朝一夕でたどり着ける境地ではないし、一生かかっても片鱗に触れられるかどうかわからない。ただ、少なくとも、そうでありたいと願い、そうなろうと身を正すことくらいはしていたい。  さて、そういう価値観の私が最近とても「下品だなぁ」と思ったのは、次の記事。 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140713/waf14071323

ドゥーチェ、アンチョビ! OVA「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です!」感想

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 久しぶりにアニメの話を。昔はよくレビューと称して色々と語りましたが、まぁ私もいい歳なので、深い話は若い子に任せて、気楽に感想など書いてみたいと思います。  お題は「 ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です! 」。OVAとして制作されたものですが、先行して劇場公開したので昨日7月5日土曜日に観てきました。長編映画ではなく40分の短い時間でしたが、ガルパンらしく、迫力のある映像とテンポの良い展開で、濃密な映像空間が出来上がってましたね。  メインとなる筋は、TV版第7話でたった数秒で結果のみ伝えられるという、やや気の毒な扱いだった「アンツィオ高校」との対戦。ノリと勢いだけは良い、というこれまた気の毒な評価の高校との対戦は、本当はいかなる激戦であったのか。はたしてネタ枠だったのか、それとも意外な強豪だったのか、ファンの間でも楽しみなお話でしたが、ようやくそれが明らかになったというところ。

閑古鳥のなく頃に

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「本当に儲かってるのか?」と思うようなお店ってよく見かけます。中核都市部ではまぁそう見かけないんですが、ベッドタウンなどのいわゆる衛生都市部、もしくは田舎では頻繁に見かけます。商店街なら多少わからないでもないですが、商店街ですらない場所にある、ぼろっちぃお店など見ると「大丈夫なの?」と思うことしばしば。誰が利用してるんですかね。 PENTAX K-5IIs + SIGMA 17-50mm F2.8 EX DC HSM  というわけで、写真は見るからにボロっちぃおもちゃ屋さんです。上部の店名看板は見るからに褪せてますし、ドアにあしらった「いらっしゃいませ」の文字は「っ」が剥がれ落ちて「いら しゃいませ」になっている。直しなよ!と思わず言いたくなること請け合い。  このお店、私が小学生の時には既にこの有様でした。「昔は小綺麗な店舗だったんだよ」なんてことは一切なく、本当に当時からこのさびれかげんだったんです。ろくに照明もきいてない店内は始終薄暗く、コンクリート打ちっぱなしの床は冷たい印象の上に埃っぽくて、おまけに店主は陰気なじいさん。ショーウィンドウに飾られたおもちゃの箱は日焼けて色があせている始末。なぜ潰れなかったのか、そしてなぜ今でも潰れていないのか、さっぱりわからない。  そりゃね、私の子供時代はキン消しブーム、ラジコンブーム、ミニ四駆ブームなど、おもちゃ屋さんがよだれを垂らすブームが寄せては返す時代だった。初代ファミコンからリアルタイムでテレビゲームの進化を体験した世代のド真ん中でもあり、現代的な子供が没頭する趣味が次々に発生した時代だったので、おもちゃ屋さん的にも美味しい時代だったはず。それは否定しない。  しかしちょうどその頃、このお店の目と鼻の先にもう一つ、それこそ「小綺麗な」という表現がピッタリのおもちゃ屋さんがもう一件あったんですね。  店名は「ふじや」だったはずですが、ショーウィンドウに女の子が大好きなぬいぐるみを飾り、自動ドアに入ったすぐのところにファミコンソフトのケース、奥の方にはマニア心をくすぐる模型やらカードゲームやらを並べ、レジには若い女の子のアルバイトという、完璧な布陣で固めた……つまり、かこ玩具店では太刀打ちできそうにない、立派なおもちゃ屋さんだったんです。これは勝負にならない、いずれかこ玩具店はシャッターが降りた

強さを支えるもの

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 にわかサッカーファンを大量に生み出しているサッカーW杯も10日が過ぎましたが、日本代表の一次リーグ突破は極めて難しくなっている状況らしく、ニュースの調子も「勝たなければならない!」ではなく、「せめて1勝」という色に置き換わってしまっています。  普段観ていないので、日本がどのような実力であるかというのはよくわかっていないのですが、様々な記事を拾い読みする限り、勝てない、勝ち切れない原因は「自分たちのサッカー」というものができていない、というところに尽きるようです。  自分たちのサッカー、というのが何なのか私にはわかりません。知識がないからです。ただ、プレースタイルを一貫できていないことは諸々の記事からわかりますし、そうであるなら、選手か、あるいは監督をはじめとするスタッフか、その両方かに、自分の力、強さに対する自信がないのであろう、ということには察しが付きます。  W杯は準備期間が長く、地区予選を含めて4年間を費やすようですが、その間に各代表チームは練習を積み、試合を重ね、自分たちの力量に合ったプレースタイルを確立し、それぞれの目標に向かって研鑽と経験を積む。  本戦であるW杯はその積み上げた成果を示す場であり、すべての準備はここまでに終えておかなければならない。逆に言えば、ここまでに準備できなかったことは、示したくても示せないということ。プレースタイルが一貫できないということは、その「準備できなかったこと」をやろうとしていることに他ならず、それでは確かに勝てないだろうと思います。  もちろん、様々な事情はあるのでしょう。準備できていたことが思うように実行できない、通用すると思っていた実力が跳ね返される、広いと思っていた道は予想外に狭く、見通せると思っていた景色は遮られて先も見えない。そうならいっそ、今までのことを捨ててもいいじゃないか、と。  しかし、やはりそれは無理な願いなのでしょう。実力以上のことができないように、実力外のことだって人間にはできない。自分たちにできるのは準備していたことだけであり、それ以外のいかなるものをどれだけ渇望しても、ないものは決してそこには現れない。  茨の道であっても、先の見えない暗闇であっても、たとえ一歩先は谷底であったとしても、やってきたことを信じて地道に一歩ずつ進むしかない。  残酷ともいえるこの泥臭さは、常に