上品ということ

 上品に生きたい、というようなことを折にふれて思います。上品と言ってもハイソな感じのそれではなくて、なんといいますか、高潔な人格でありたい、もしくはそれに近づきたい、という意味。ひとことでいえば、品性よくありたい、ということ。
 上品とはふつう「気品が良い」というような意味を持っていますが、もっと根源的な性根の部分で品よくありたいと思うわけです。……わかりづらいか。

 食事を例に取るとき、一般的な意味での上品というのは、マナーが良いであるとか、食べ方が美しいであるとか、そういうことを指していると思うのですが、私の考える(志向する)上品はそれとは少し違っています。例えば食卓を囲むメンバーにマナーの悪い人がいた時、行儀のなっていない人がいた時などに、彼らに対してどう振る舞うか。そんな時、目くじらを立てて怒り出す人、表に出さずとも冷淡な感情を抱く人は、私にとっては下品な人です。そうではなく、許容しながらも穏やかにたしなめられる人、あるいは笑ってその輪に入れる人、そういう人こそが上品だなと思います。

 あるいは人と意見が食い違ったとき。目を三角にして、口角泡を飛ばして、相手の意見を一切聞き入れずに、やり込めることにばかり心血を注ぐような人は、やはり下品だと思う。そうではなく、相手の言うことをよく聞き、理解し、その上で自分の意見を述べて、互いの落とし所を見つけられる人、そういう人が上品だと思う。
 表面的なマナーや気品を超えた、"人格"としての高潔さ。それが私の考える上品の定義。受け入れる度量と、人を正すことのできる器量。穏やかな心持ちでそれらを内に秘める人こそが、高潔な人格であると思う。そのような上品さを持った人間に私はなりたい。いつの頃からかはもう忘れましたが、たぶん20代前半くらいの頃から、そう願うようになりました。
 もちろん、凡人の私にとって、それは一朝一夕でたどり着ける境地ではないし、一生かかっても片鱗に触れられるかどうかわからない。ただ、少なくとも、そうでありたいと願い、そうなろうと身を正すことくらいはしていたい。

 さて、そういう価値観の私が最近とても「下品だなぁ」と思ったのは、次の記事。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140713/waf14071323190022-n1.htm

 こういう品性の人間にはなりたくないなぁ、とつくづく思います。他人を攻撃することでしか自分をよく見せられない、貶めることでしか相対的な価値を示せない。21世紀も14年目だというのに、まだこういう声だけ大きい人が幅を利かせているのかと思うと、人類の歩みはなんと遅いのかと思わずにはいられない。
 ポピュリズムを狙ったものといえば確かにそうだろうとは思いますが、それが効果的だからといって、いつまで縋るつもりなのか。手っ取り早く快楽を得られるからといって、誰も麻薬を肯定したりなどしない。

「狭い門から入りなさい。滅びへの門は広く、そこに通じる道は広々としていて、そこから入る者は多い。しかし、いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つける者は少ない」
新約聖書『マタイの福音書』7章13節)

 まぁ、反面教師としては大変な逸材にも思えますが……。
 いえ、別にいてもいいんですよ。そういう人。でも上に立つ人間ではない。せめて前には出ないで欲しい。そう思います。

 ま、そういう感想を抱いている時点で、私もまだまだ「上品」な人間には遠いのですが、ただやはり、どうなりたいか、と言われれば、こうはなりたくない、と答えるしかないのです。

PENTAX K-5IIs + SIGMA 17-50mm F2.8 EX DC HSM

2014年7月14日

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