どこんちもだいたい一緒

 たまには宗教の話でも……。

 格言集めの一環で聖書などたまに読みますが、ここに書いてあることはかなり極端ではあるものの、ある種の理想世界を語った「正しき」書ではあります。少なくとも、書いてあることを書いてあるとおりに全ての人が実行すれば、住みよい世界になるでしょう。
 しかし、キリスト教社会と言われている国でも、理想郷にたどり着くどころか、ほとんどの場合聖書の教えは実行されない。なんでかというと、たぶん聖書に書いてあることは、単純に読むとハードルが高すぎるからだと思う。

 たとえば次の一説。

「あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬も向けなさい。上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。求める者には誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪おうとする者から、それを取り戻そうとしてはならない」
~~新約聖書『ルカの福音書』6章29-30節)

 イエスが弟子に語った有名な説教ですが、これたぶん無理。今だったら、キリスト教社会であろうと、上着を奪われた時点で逃げるか訴えるかの選択しかしない。
 

 
 この言葉をはじめとし、私を含めた凡人からすると、イエスの言葉のほとんどは、表面的に読むだけでは「綺麗事」として片付けられてしまう類のモノ。聖人レベルの精神性を持ってないと実行できない。マザー・テレサくらいじゃないとダメ。
 しかし、教え自体が間違っているかというとそうでもないから、凡人は聖書の記述の表面をなぞりながら、暗黙の約束事を構築してしまう。
 あれするな、これするな、聖書にこう書いてある、聖書が言ってるのはたぶんこういう意味、だからこれこれはやっちゃダメ、こういう風にしなさい。
 そして、いつの間にかガチガチに凝り固まった、頭でっかちの宗教団体と化していき、やがて、自分たちが信じている教義から外れたものが許せなくなる。
 戦争の火種がここにあります。キリスト教社会がいつまで経っても理想郷を建設できないのはたぶんそれが原因。
 そして、悩ましいことに「教義で凝り固まることをイエスは厳しく批判していた」ことに、なぜか信徒の多くが目を逸らす。なぜってその方が楽だから。
 聖書の真意を常に考察しているより、単純な教義を守るほうが、そりゃ簡単でしょう。人間、楽なほうへと流れていきます。
 しかし、聖書にはこんなことも書いてある。

「狭い門から入りなさい。滅びへの門は広く、そこに通じる道は広々としていて、そこから入る者は多い。しかし、いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つける者は少ない」
~~新約聖書『マタイの福音書』7章13節)

 広い道から広い扉に多くの人が入っていけば、それを見る者は疑いなくその道が正しいと思い込む。しかし、本当に正しい道というのは、自分で見つけ出さなければいけない狭い道、狭い扉なのだと、イエスは言う。
 たぶん、イエスが本当に重要視していたのは、先入観による支配からの脱却。
 頬を打たれたらどうのこうのというのも、おそらく、「打たれたら打ち返すのが当然、と思うな」というのが真意だったんじゃないでしょうか。それを極端、かつ、キャッチーに表したのがあの一節なのだと思う。
 思い込みを捨て、まず一から考え直してみろ。そこには違った世界が広がっているかもしれないから。目の前の悪人だって、悪人に見えるだけで、本当は善人かもしれない。逆に、目の前の善人は、本当は悪人かもしれない。自分に必要なことが何なのか、よく考えること。
 この辺りは、キリスト教のみならず、たとえば仏教などの他宗教でも同じことを教えます。宗教の教義を解体していくと、だいたい最後には似たような価値観が残る。
 どこの世界でも、本当に必要とされることってのはあんまり変わらない。それは、たぶんすごく単純で、誰にでもできることのはず。
 久しぶりに聖書を拾い読みしていて、そんなことを考えました。


2010年4月20日

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