親と子供の付き合い方(高校の教科履修不足問題について考える)


 秋月りすの「OL進化論」(講談社)では、成績が落ちたことについて母親と話していた長男が、「今の入試は偏差値や試験の点数重視でよくない」と主張し、母親がそれに対して「じゃあ全人格を総合評価する入試なら受けてみたい? でもそれで落ちたらもっとダメージ大きくないか?」と返すというネタがあります。なるほどと膝を叩いたものです。



 とはいえ、じゃあ受験勉強だけやってれば良いかというとそうでもない。進学せずに、自分の道を模索したい人、すでに夢は決まっていてその道を歩んで行きたい人、そういった様々な"将来"を心に描いた子供たちが集まっているのが学校という場所で、そう言った夢を含めた展望をなるべく広くサポートしてあげられるのが本来の姿であるべきはず。

 要は「いかに子供たちに希望を与えてあげられるのか」が学校の価値であり、そのための体制を整える責任を負うのが文部科学省と教育委員会の仕事です。まぁ理想論ですが。

 しかし、ではここ最近の履修不足について、それが学校および関連するお偉いさんだけの責任であるかというと、そうでもない。もちろんするべきことをしていないのは体制側の責任に決まっているのですが、根本的な「そうなってしまったこと」の責任は彼らにはない。やはりそこは"社会"、そして"家庭"のはずです。



 ここで、再度冒頭で挙げたOL進化論のネタを検証してみましょう。このネタの真髄は母親の軽妙洒脱な返答にはない。真に秋月氏がメインにしているのは、長男の台詞そのものだと考えます。

 すなわち、受験制度に対して"人間性の欠落"を訴えながら、しかし長男が描いている進路像が"受験→大学進学"という最も人間性という単語から遠いものでしかないこと(学校のテストから発展した将来像が短絡的に受験に直結することからそれがわかる)。それこそが、このネタにおいて描かれた秋月のターゲット。受験という難関を見据えて、いつしかそれ以外の道を見失ってしまった結果、進学以外の道は、行く先が閉ざされたものであるような固定観念ができてしまっている。学力偏重の影響を悪い形で受けている典型的な例が長男のぼやきを通して描かれているわけです。

 受験戦争にさらされている子供たちは、多かれ少なかれ、この長男のような状況に陥っていることだろうと思われます。一流大学への進学(→一流企業への就職)を頂点としたヒエラルキーに支配された中で、それは仕方ないことです。逃れ得ない宿命だといっても過言ではない。



 そんな子供たちに学校側が示すべきは、「進学だけが道ではない」という指針でしょう。しかし現実問題として、それを理念として学校を運営して行くのは極めて難しい。子供たちはともかく、その背後にいる親にとっては、なるべく明確な路線図の引かれたレールの上を走らせたいわけで、そうなれば最重要視されるのは大学進学であることは当然の帰結。

 仮に学校に自浄化作用があったとしても、おそらく多くの親はそれを許さないでしょう。

 実際には一流大学に進学しようと幸福の保証は得られないし、中学卒であっても立身出世する子供はいる。明確な路線図など所詮は幻想で、子供に合った進路を示してあげることがいちばん重要なのですが、それは濃霧の中の道路標識を探すかのごとく心もとない

 自身のない親、想像力の乏しい親のよりどころは、大学→企業→安定収入の三点セットが定番で、そして悲しいかな、多くの親がそれにすがってしまうという現実がある。



 親の要求が進学に集約されてくれば、必然、現場の方針はそれに倣うものになります。となれば、一人でも多くの子供を大学へ押し上げることが最重要課題となりますから、受験に必要な教科以外はないがしろにされても不思議ではない。例えそれが本来のあるべき姿から外れているとしても、です。まして、週休二日制が導入され、ゆとり教育の名の下に総学習時間が少なくなっているわけですから、選択肢は無いに等しい。

 必要悪という言葉の下、履修科目以外の切捨ては起こりうるべくして起こったことだと考えます。



 さて、では理想の教育現場とはどのようなものでしょうか。

 …と、言った途端に申し訳ないのですが、実際には理想の教育現場などありえない、と言うのが私のスタンスです。

 組織というものが"人間"というエレメントによって構成されている以上、必ず不整合は発生します。社会にしろ学校にしろ、多数の価値観が集合する以上、"特化した環境"というものは存在しても、"理想的な環境"というのは存在しえないのです。

 すべてにおいて理想の環境などない。目指す地平はそこに設定すべきだとしても、盲目的にそれを望むのは間違いだし無意味です。



 重要なのは、そういう中でもなんとか渡りきっていけるだけのタフさがあるかどうか。



 ここで私の仕事を例にとってみましょう。クライアントへのシステムの提案と開発がウチの会社の基本事業で、私はその中でシステム設計~開発を担う立場にあります。当然、クライアントの環境はシステム全体に影響を及ぼすものですから、設計はクライアントとの打ち合わせを元に進めていくわけですが、これがとにかくスムーズに行かない。

 こちらは、可能な限り柔軟性の高いシステムを作りたいので、特定の環境に依存しない設計を進めたい。その方が、後に環境が変化した際にシステムに手を入れずに済ませられるし、逆に言えばシステムがクライアントの環境を縛らないということでもある。

 しかし、ユーザーサイドはこちらの考えなど笑止千万とでも言うように、自分たちの環境べったりの設計を要求してきます。いったい、そこまでハードコーディングしたシステムの何がいいんだと小一時間問い詰めたくなるような要求を次から次へと繰り出してきます。

 例えばそれが、ある特定の環境化において仕方ないと論理的に考えられるものであれば仕方ないのですが現実はそうではなく、「何となく趣味じゃない」「違う部署の誰それが嫌いだから、この設計やめて」「よくわからないけどヤダ」とかそんなのばっかりです。時々目の前のクライアントを殴り倒したくなることすらあります。

 無論、それをすべて飲んでいたら、世にもおぞましいシステムが組み上がることは明白なので、こちらも全力でそれを回避すべくネゴシエーションします。しかし、やはりある程度は向こうの要求も呑まねばならず、たいていの場合は、こちらが描いたシステムの理想像の5~6割か、良くて7割が実現していれば御の字、といったところになります。クライアントによっては、どんなにがんばっても4割程度になってしまう場合もあります。

 こういった時、理想と現実のギャップをうま~く渡っていけるかどうかが、SEとしてやっていけるかどうかの最低条件です。渡れる人は「まぁそれなりに何とかしよう」と開き直って、制限された中で最高のパフォーマンスを発揮しようと奮闘し、渡っていけない人は辞めるか病めるかのどちらかの運命が待っています。



 理想の環境がありえないのなら、その中で何とかする以外ないわけです。



 これを先ほどの教育現場の話にすり合わせると、現実的に不正や悪を内包した社会、あるいは社会の縮図である学校と言う環境の中、いかにその制限された中を渡っていけるかと言うのが重要だということ。

 もちろん、成長途中の子供たちに、その世渡りのすべてをうまくこなせと言うのは無理な話です。誰かのサポートがいる。それは誰か? 言うまでもなく、最も子供と接する機会の多い"はずの"、親の役目を負った者たちでしかありえない。

 悩める子供の話を聞き、問題点を明らかにし、解決への指針を示す。解決策が見いだせなくても、一緒に考えてあげるだけでもいいだろうし、自分の経験を話してあげることだって子供にとってはありがたい。そこから将来への展望が開けていくことは往々にして存在する。仮に言葉がなくても、親の行動が規範となるものなら、子供は必ずそこにメッセージを見出します。

 あらゆる意味で、子供の手本は親です。その親が「進学→一流企業就職→安定した収入→安定した老後」という、画一的なビジョンしか示せないのでは、子供たちはますます追い詰められるばかりだし、学校はますます進学のみを目的とした機関に成り下がります。

 教育の現場を少しでも理想に近づけたいのであれば、まず親が動くことです。それ以外に有効な手段は何一つない。



 秋月氏の作品の中、母親は「入試で評価されるのは学力だけ」という一般論の裏に、「もっと柔軟に考えなさい」というメッセージを込めて、悩める長男にエールを送っています。それは「進路はそれだけじゃないよ」という皮肉を込めた思いやりであり、固定観念に四方をふさがれて行き場のなくなった現代社会への、秋月氏からの痛烈なメッセージでもある。

 幸せへの道はひとつではない。それを示してあげることが、幸せへの第一歩です。




 最後にもう一作、ある意味究極の教育指針を示した母親が登場する4コママンガを紹介します。

 秋吉由美子のファミリー・コメディ「うちの母親待ったなし」(芳文社)。家庭内暴力、幼児虐待、キレる子供、そんな陰惨な要素のひとかけらも見当たらない底抜けの平和コミックである本作に登場するのは、ひたすら息子に甘い&超天然ボケの母親・通称おかん。

 しかし、この作品自体は何の問題提起もしていないものの、ここには「家族」に対してあまりにも神経過敏になりすぎる現代社会への、ひょっとしたら最高の処方箋になりうるかもしれないものが秘められています。

 それを端的に示した例が、次のネタ。

 宿題をせずに遊びに行こうとした息子・翼太を見つけたおかん。「帰ってからやるから」と言い訳する息子に対し、我らがおかんはこう言います。



「いいわよ宿題なんてやんなくて。どうせやっても間違いだらけなんだから♪ 思いっきり遊んでおいで」



 このアバウトさこそ、現代教育現場に最も必要なものかもしれません(笑。


2006年10月28日




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