トラックに乗せられていたものは

■毎日新聞「秋葉原通り魔:死亡7人、負傷10人に…25歳男を逮捕」
http://mainichi.jp/select/today/news/20080609k0000m040013000c.html

 ……自分が大事。何よりも自分自身が幸せであることが優先。そのために、人を傷つけることを厭わない。上を目指すために他人を押しのけて――
 ……という価値観を推し進めてきたのが戦後日本だったと思うのだが、こういった事件はその延長線上だろうか。どうにも、日本教育の暗部を感じさせる事件である。

 言うまでもなく、現代教育の最大の焦点は「受験」であるが、それと同時に重視されるのは……というか、もうひとつの柱とでも言うべきものは「個性の尊重」だろう。
 「人はそれぞれ違うのだから、君は君で良いんだよ」。それ自体はまぁいい。間違っていない。真っ当な正論だ。諸手を挙げて賛成しよう。
 しかし、これを正しく子供に伝えられているかというと、まったく伝えられていないように思う。たいていは「誰より自分自身が一番大事なんだよ」という、一見正論、実は恐ろしい勘違いを子供に植え付けている。

 「自分が大事」という部分は否定しないが、同時に「他人も大事」なのだ。優劣も高低もない。そこを教えてあげないと、人と人との距離感は破綻する。
 その破綻の現れが、この事件を構成する要素の一つだと思えてならない。
 他者を殺してでも、それでも突き通したかった"自我"。秋葉原の歩行者天国に現れたトラックに乗せられていたのは、犯人の肥大化した自我ではなかったか。

 「世の中が嫌になった。生活に疲れた」

 犯人が語った言葉だという。なるほど、きっととても辛い経験をしてきたのだろう。まして25歳。多くの挫折を味わう年頃だ。死にたくなることもきっとあるだろうし、怒りや悲しみを何かにぶつけたくもなるだろう。私も若い頃は、自宅のぬいぐるみにずいぶん辛く当たったものだ。気持ちは判る。
 しかし、できればそこで一歩……いや、半歩で良い、引いてみて欲しかった。そうすれば、他者が自分と同じように傷つき、悲しみ、辛い思いをしていることに気づけたかもしれない。こんな悲しい事件も起こらなかったかもしれない。


「きっとうまくいかない事もあるはず。そんな時は……、折れるまで戦わないで。ここに来て、思い出して欲しい。この世界はこんなにもすてきなことに溢れていることを。自分の悩みは自分一人のものではないことを。誰もが苦しんでいることを知ってほしい」
小牧愛佳 ――「ToHeart2」)


 ……辛いのは自分だけではない、皆が涙を流しながら生きているのだ。自我を肥大化させるより、他者のために一歩引いて自分を抑える勇気。きっと、足りないものはそれなのだ。

 他人なんて関係ない、などということはない。自分も誰かの他人であることを思えば、社会という公が"他人"の集積で構築されていることに気づけるはず。部屋から一歩も出ない引きこもりであろうと、命を支える食事や、住宅を支える光熱が供給されているのは、紛れもなく他者のおかげなのである。
 人は決して一人では生きていけない。そして、同時に人は決して独りぼっちではない。姿は見えなくとも、そばにいなくても、必ず誰かと繋がっているのだ。その誰かを大事に想うことに、ためらう必要などあるものか。

 人を思いやる。同情する。他人の痛みを判ってあげる。
 言葉にすると陳腐に聞こえるかもしれない。しかし、この言葉が"陳腐に聞こえる"ということ自体が既に常軌を逸している。
 本当は、それらはとても温かくて心地よい、優しい言葉たちなのだ。
 偽善でけっこう、それで誰かが笑顔になるなら、そんな嬉しいことはない。

 もういちど、埃をかぶってしまった温かいものを思い出してみてはどうだろうか。


 最後に。この事件でお亡くなりになった方のご冥福をお祈りします。


2008年6月8日

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