アニメ「けいおん!」に見る壺中の天

 近頃ずっと、アニメ版の「けいおん!」を全話通して観ていて、今日、ようやく第2期番外編まで全部観終わった。久々のブログ記事はその感想です。
 しかし、もともと「けいおん!」に限らず原作厨なので、やや辛口になりますが。

 さて、テレビシリーズ全話を通してみた感想としては……。
 やっぱり「音」を使えるという点で、バンド活動をモチーフにした物語としては、アニメという媒体は有利な点が多々あったなという印象。学園祭ももちろんだし、卒業式後の、梓への歌のプレゼントなんかは特に。あの場面で実際に演奏が流れると、やはりグッと来るものがある。
 それに、OP/ED曲は難易度の高い曲ばかりだけれど、劇中歌のほとんどは学生バンドでも演奏できるくらいのスコアだったのも良かった。ファンの楽しみは他の作品よりも多くの広がりがあったはず。実際、ギターやベースがたくさん売れたそうだし、近頃は落ち着いたとはいえ、一時期は即席のバンドがよく作られていたらしい。

 それから、各話を20分ほどの尺で描けるので、4コマだった原作に比べると、一話単位のストーリーが深く描けていた。やや厚塗りに過ぎたところもあるけど、まぁいまどきのアニメはこんなものだろうか。加えて、間を多く取れる分、「けいおん!」独特のゆったりとした放課後の空気感が、アニメならではの景色で描けていたと思う。

 ただ、もともと原作が頭の中に前提としてあったからというのもあるが、全体の構成という観点から見ると、『閉じた世界』という印象が強くて、正直なところ「暗いなぁ」とは感じた。キャラクター自体は、多少まじめな生徒っぽかったとはいえ明るく描かれていたものの、肝心の物語の方が内向きに閉じてしまっていて、作品全体のトーンが暗い。

 例えば、原作の最終回で重要な意味を持つ以下の梓のセリフ「い、今の軽音部より全然すごい部にしてやるです!」。それを聞きながら淡く微笑んでいたさわ子先生の姿と、ここから憂と純への「確保ーっ!!」に続く梓の成長。そして、最後に描かれた、唯たち卒業生組の一コマ。これが原作をひときわ輝かせた名場面だった。
 これら一連の流れが示すのは、いわば「リフレインする放課後」。連載開始から唯・律・澪・紬の四人が作ってきた放課後ティータイムの雰囲気は、彼女たちからの影響を強く受けた梓へと継承され、まだ見ぬ新入生達へとさらに受け継がれていくことを暗示する。
 加えて、彼女たちのやりとりを聞きながら遠い目をしていたさわ子先生の姿は、この伝統が、かつて一度は途切れたとはいえ、昔から繰り返されてきたものであることをも表している。そこにあるのは、終わったように見えても、また新しく繰り返される放課後。
 残した足跡は、新しい下級生たちへの贈り物となって、新しい「放課後」を作っていく。そして、足跡を残した者は、いっぱいの桜吹雪に彩られた未来へと歩きだし、また新たな足跡を作っていく。これが、原作「けいおん!」の幕切れだった。
 原作の裏表紙に、最後まで梓のムスタングを表すアイコンが描かれなかったのも、偶然かも知れないけれど象徴的。まして、4巻のアイコン横に描かれたのが、梓・憂・純とくればなおさら。中心である唯たち四人と、"次"の中心となるであろう梓たち三人。この対比は、やはり「けいおん!」という作品に必要なものだったと思う。

 一方アニメの幕切れはというと、卒業生が歌う「天使にふれたよ!」を聴いた梓が「まだまだ聴いていたいです」と微笑み、それに対して律たちが「次は一緒に」と誘う。そして、部室に訪れたさわ子先生と和を観客に、終わらない演奏を続けていく、という内容。
 原作とは違う意味で「終わらない放課後」「繰り返される放課後」が描かれるが、この描き方では完全に世界が閉じてしまっていて、未来へと続く指向が感じられない。いわば壺中の天であり、自分たち以外に世界が広がらない、何ともこぢんまりとした放課後になっている。アニメに対して「暗い」と感じたのは、第1期の頃からこの暗さが随所に見られたからで、それが、最後まで違和感を感じ続けた理由でもある。

 結局、唯たちに対する"梓"の役割の違いが、原作とアニメの性格の違いを決定づけた最大の要素だったと言える。
 原作では、同じ時を過ごし、重ね合わせた存在ではあっても、やはり梓は先輩である唯たちに対する後輩であり、まったく同一の存在ではあり得ない。無論、それは仲間はずれという意味ではない。仲間として加わりながらも、「先達から影響を受ける者」としての存在だった、という意味である。それは同時に、まだ見ぬ後進へと軽音部を伝えていく者という意味でもある。
 つまり原作2巻以降の展開というのは、唯たち四人から梓を通して、次の世代へとリフレインしていく「繰り返される放課後」を、長い布石と共に描いた、遠大な物語であったと言える。ぼやっとしたヌルい作風ながら、最後に描くべき事はしっかり描いた作品でもあったのだ。
 一方アニメの方は、梓をあくまでも唯たちの世界に取り込んでしまうことに腐心する。
例えば第1期では、練習しない軽音部から離れようとする梓が、ステージでの唯たちの煌めきを忘れられずに涙する姿が描かれる。これは、ひとつの組織を描いた物語においては、「仲間に入るためのイニシエーション」として効果的ではあったものの、エピソードの印象が強すぎて、その後の梓が軽音部に完全に同化してしまうという弊害があった。
 原作では、そういった葛藤が描かれなかったことにより、梓は仲間内にいながらも、少し離れた場所から四人を観察できる存在であり続けることができた。このため、何度か「練習した方が……」と悩む姿に、クスリと笑わせられるおかしみが生まれていたのだが、アニメの方は結びつきが強くなりすぎて、そういった姿にあまりおかしみが感じられない。ただのキャラの個性としてしか機能しなくなっている。

 要は、客観性を持った梓という立ち位置が喪失してしまっているわけで、このことにより、梓は後輩でありながらも後輩ではないという、据わりの悪い立ち位置に据えられることになってしまった。
 梓の進級時に、唯たちが「仮想の後輩」としてスッポンモドキを買ってくるが、これも制作陣の意図がどうだったかはともかく、「梓の次はこれで終わり」という終端端末の役割として機能してしまう。
 また、「卒業しないで」と泣く梓に、唯たちが曲以外で贈ったのも、原作では来年度に向けた激励だったのに対し、アニメでは桜と思しき五枚の花弁を持った花と、唯たち四人が写った写真に梓の切り抜きをコラージュしたものだった。そこには「別れても気持ちはひとつだよ」という唯のメッセージが込められていたことは明白だが、何しろその後の展開が、先述の通りに閉じてしまうため、別れを認めたくないという意味に反転してしまっている。
 卒業式にみんなで撮った写真を愛でながら、別れの寂しさを明日への活力に変えていった原作梓の眩しさと比して、なんと暗く元気のないことだろうか。これでは、いくらなんでも可哀想だと思う。

 要は、アニメ版では徹頭徹尾「唯たちが卒業した後の梓」が無視されているのだ。それらを見ないように、目を背け続けた結果が、「まだまだ聴いていたいです」に集約される。
 別れを惜しむ気持ちは分からなくもないが、これではあまりにも内向きに過ぎる。せっかく、憂も純も梓の友人として活躍しているのに、彼女たちでは梓の支えにならないと言われてしまっているのと同じであろう。
 唯たちもまた同じで、明日への希望を胸に旅立っていく卒業式の日であるというのに、見ているのはこれまでの楽しかった日々ばかりなのだ。そこには、前へ進んでいこうとする明るさも、未来を信じて歩いていく強さも感じられない。
 「そうだよ!私たち大学生だよ!大人だよー!」と言って笑っていた、原作唯の輝きはどこに行ってしまったのだろう。

 いくら放課後が終わって欲しくないとしても、いつかは必ず下校時間が訪れる。だからこそ、明日の放課後が待ち遠しく楽しみなのに、アニメ版は「今日の放課後」にずっとしがみつこうとする。いわば現実逃避であって、先ほど「壺中の天」だと書いたのも、そこがどうしても気になったからだ。

 ここで思い出すのは、別作品になるけれども、漫画「ひだまりスケッチ」6巻の、吉野屋先生のセリフ。「せっかく未来の話をしているのに、後ろしか見ていないなんて何だか悲しくて…」。

 アニメ「けいおん!」が、原作の持っていた明るさを描けなかったのは、まさにこれではないだろうか。
 とはいえ、事実としてアニメ「けいおん!」は稀に見るスマッシュヒットになったわけで、この壺中の天が広くファンに受け入れられたことには疑いがない。であれば、今の時代、この種の閉じた世界が求められる何かが、きっとあるのだろう。そう考えれば、その時代を敏感に感じ取り、要求に即した物語を描ききったスタッフ達は慧眼だったと言わざるを得ない。
 結局、原作は原作、アニメはアニメなんだろう。両者を同一にせねばならないという約束事があるわけでなし、それらの違いを論じても生産性はないのかもしれない。
 それでもなお、やはり一抹の違和感が拭えないのは、きっと、どうしても「若い子には前を見ていてほしい」と思ってしまう、年寄りのお節介なんだろう。
 思えばずいぶん歳をったもんだ。

2011年12月12日

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