守るべきものは何か

 「ドブスを守る会」の一連の騒動、まぁ言い方が正しいかどうかはともかく、盛り上がっているようですね。

 参考:
 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/17/news059.html
 http://togetter.com/li/29756
 http://www6.atwiki.jp/blog-enjyou/pages/77.html

 話題性という意味では、はたして当事者の思惑通りと言うべきなのか……。当事者の先輩に当たる梅田という人のtwitterでは、どうやら「鑑賞者、あるいはそれに類する存在を作品に取り込む」という、アートの世界では有り触れたことをしたかったらしい。そんな、さして先進性があるとも思えないテーマを、周囲の顰蹙を買ってまでしたかったどんな理由があるのか、当事者ではない自分には想像の範疇外ではありますが、いずれにせよはた迷惑な行いには違いない。
 そもそも、当事者自身は「アートだと思っていない」みたいなことも発言していたり、何が何やら。『「オカシミ」を生み出したい』『この笑いが20年後には主流になると思ってやってる』というのが本人の談ですが、素人いじりで笑いを取るというのは、それこそ数十年前からお笑い芸人がやっている気もします。もっとも、プロの場合は許可を取ってやっているので、そこが違うと言えば違いますが。

 まぁ、アートかお笑いかという判断はともかく、広義の意味でいずれも「表現」の範疇で語れるものには違いない。お笑いだってアートだという主張もあるでしょうから、そこを検証しても意味がない。
 問題は、「表現というものは、どこまで許容されるのか」という点だと思っています。

 よくある話として、表現者の発信するものに対して抑圧がかかる際、当事者あるいは周辺からの抵抗として「表現の自由の侵害」という意見が提出されます。創作活動やそれに類する活動においては、作者の要求する手法は保障されるべき……というような主張でしょうか。
 憲法上では、第21条第1項において、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」という至ってシンプルな文章で表されているものですが、なるほど、「一切」というくらいですから、額面通り受け取れば「全て保障される」ということになります。それがどのようなモノであれ、この文面だけを盾にすれば、"表現の自由"はその全てが保障されていなければならない。
 であるならば、先のドブス云々という動画についても、「創作者が『表現の一環だ』というなら、それは表現の自由として容認されるべき」と考えられる。

 ……しかし、です。

 

 表現の自由が保障されるのと同じように、個人の尊厳もまた保障されなければいけない。日本国憲法の基本理念が、個人の尊重と人格価値の尊重をベースにしているのは今更言うまでもなく、また、世界人権宣言においても次のように記述されます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
前文:

 人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、

 人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、

 人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要であるので、

 諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、

 国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、

 加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、

 これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、

 よって、ここに、国際連合総会は、

 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と尊守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。



第一条:

 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
参考:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html)


 これらの理念を踏みにじるようであれば、表現の自由というのはすぐにでも抑制されることでしょう。最悪、剥奪も覚悟しなければならない。
 自由を掲げるのは悪いことではない。ただ、自由には常に責任がつきまとうことを、忘れてはならないのです。
 表現はどこまで許容されるのか。それは「社会規範に照らして、他者を侵害しない範囲で」と言うことになるでしょう。"社会規範"というのが、線引きの難しいところではありますが、ボーダーラインがその曖昧などこかに存在することは、論を待たない。
 さて、それともう一つ。
 そもそも、表現の自由とは何なのか?
 それは人間が生まれながらにして保障されているモノなのでしょうか。
 ……実は、私はあまりそう思っていません。
 誤解の無いように言っておくと、「表現の自由なんて無い」と言いたいわけではありません。というより、全ての概念は最初から自由である、というのが私の基本的な考え方です。
 ただし、それら自由が社会的に「保障されるのか」という点については、時と場合によりけり……と考えます。
 例えば「人を殺す自由」について。
 人を殺してはいけない、なんて、少なくとも人間以外に誰もそんなことを考えません。禁じているのはしょせん人間であり、本来は制限なんて無いのです。
 ただし、その自由はルール上では認められない。より抽象的に言えば、社会的に保障されない、ということ。
 人間が社会生活を営む上で、殺人の自由なんて認めていたら不都合なので、その自由は保障されない。法で禁じられるわけです。逆に言えば、その程度のものでしかない。現代においても、何らかの思想を背景に殺人を正当化することは、各地の紛争地域では日常茶飯事でしょう。日本で暮らしているから実感しませんが、案外脆いものです。
 では、表現の自由についてはどうか? 少なくとも現代日本においては認められています。ですが、時代が違えばどうか? 国が違えばどうか?
 べき論で言えば、先に挙げた個人の尊重を前提に保障されるべきなのですが、現実問題としては、表現の自由なんてのは歴史の中で「保障されない」期間の方が圧倒的に長い。海を隔てた向こうでは、現代でも検閲なんて当たり前のように行われています。
 その期間や慣習を、"保障されている側"の観点から「間違っている」というのは容易いですが、厳密には様々な背景が考えられる。ある時代や社会においては「保障されない」ことの方が、全体としても都合が良いと言うこともあり得るでしょう。
 重要なのは、自由の保障というのは、何もしなくともそこにあったものではない、ということです。先人達の血のにじむような……、それこそ、命を賭して戦ってきた末に獲得された、物凄く貴重なもの。そして、時代が移ろえば、価値観が移ろえば、容易に剥奪されうるであろう、脆弱なものでもあります。
 表現の自由は存在する。しかし、それらが保障されるか否かは社会による。……ということです。
 上記のことを念頭に置かず、表現の自由の名の下に好き放題やって、最後に損をするのは誰なのか?
 これについては、いわゆる同人に携わる者の方がよく知っているかもしれません。かつて幕張メッセでの開催を中止に追い込まれた「コミケ幕張追放事件」に代表されるように、表現、あるいは表現の発信場所の剥奪というのは、実際に起こりうることです。そのことを念頭に置いているためか、コミケのサークル参加者に配布される「コミケットアピール」では、毎回のように猥褻図画に関して言及されます。
 やりすぎれば自分たちに累が及ぶ、ということを、同人創作関係者は経験的に知っているのです(最近はそれらを忘れている、あるいは知らない世代も多いようですが)。
 同人でなくとも、猥褻図画においては松文館裁判などの例がありますし、また、プライバシーとの対立構造としては、柳美里の「石に泳ぐ魚」などは有名です。
 それらの厳密な検証、正当性、妥当性などはここでは論じません。それは他で散々語られています。重要なのは、「表現の自由の保障は剥奪されうる」という点に尽きます。
 もちろん、「だから表現するな」ということを言いたいのではありません。「表現の上での『越えてはいけない一線』を常に意識し続ける」ことが重要だと言うことです。
 どこまでならしてもいいのか? どこまでなら許されるのか? いましようとしている表現手法は、本当に自分の創作に必要なのか?
 作者は、これらの命題を常に意識し、最適な解を模索し続けなければいけない。その上で、より幅広い創作を可能にするために、時の権力と戦っていくことも求められる。
 のうのうと、そこにある権利をむさぼっているだけでは、いつかその安寧は破られる。そうならないように、自分たちを守っていく必要があるのです。
 それらを放棄し、自分のやりたいことだけをやる、という選択肢もあり得るでしょう。しかし、その選択は「自由の保障の剥奪」と隣り合わせの道である、と言うことを忘れてはならない。先人が苦労して獲得した権利を奪われる可能性を覚悟しなければならない。その覚悟がない者に、「表現者」という肩書きを背負う資格はない。
 翻って、くだんの東大・首都大生の彼らに、その覚悟があったかどうか? はたから見る限り、とてもそうは思えない。自分のやっていることに、表現者としての自信があったなら「一日だけこっそり上げて消すつもりやった」なんて言う発言が出てくるはずがない。まして、「炎上するぞ」との指摘に「もうそこはしょうがないです」と返した、その次の日に、です。
 「自分たちは表現者としてあの映像を撮影したのではない」なんていう言い訳は通用しない。それがなんであれ、ある種の理念をもって撮影された「作品」がある以上、それは表現者の物差しで測られるのが当然です。そして、提出された「作品」は、あまりにお粗末で情けない。
 結局、彼らのやっていることは、先人達が築き上げてきた土台の上で、こちょこちょと小手先の実験を行っているだけに過ぎない。それも、他人に著しく迷惑をかける形で。撮影された被害者にも、彼ら以外の創作活動従事者にも、こんな腹立たしい話は滅多にない。
 こんなことをやっていては、いずれどこかで、望ましくない規制をかけられてしまう。彼らに追従するものが出てこないことを、今は祈るばかりです。
 大事な大事な「表現の自由の保障」。それはどこかの誰かが、自分たちに代わって、がんばって守ってくれるようなものではありません。自分たちで守らなくてはならない。
 現代を生きる表現者は、このことを念頭に置いておくべきなのです。


2010年6月18日

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