漱石の文章
twitterで呟いた話ですが、よく考えたらブログ向きの話だったので、こちらにも。
久々に夏目漱石の「草枕」を読んでいたら面白い箇所に気づいたので転載。ちなみに漱石は著作権が消滅しているので平気。以下転載。
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世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。
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以上転載でした。明治の世から、このあたりは何も変わってませんねぇ。「アレのことか」と思い当たる人も多いのでは。
それにしても漱石の文章はいつ読んでも良い。こういう文章を"芳醇な"と形容するんです。
元々小説というのは――、というか、芸術というものを構成する要素というのは、つまらないものです。このつまらないものを、「いかに面白く魅せるか?」と試行錯誤した果てに、芸術というものができあがる。
漱石の文章というのは、これを極めて素朴で、単純で、ストレートに達成している。これがすごい。
積み上げられた言葉の一つ一つはとても平易で簡素なのに、並べられた配置が描く軌跡が天を駆けている。こういうのを「言葉の選び方が良い」と言います。
たとえば「吾輩は猫である」なんか、描かれているのはつまるところ苦沙弥先生たちの日常風景。苦沙弥先生は別に天才でも変人でもないただの凡人であり、彼らの毎日などそもそも面白いわけがない。
それでも「猫」は他に並び立つものがないほど面白い。これこそ言葉の持つ力であり、小説というものの醍醐味。
いかに見、いかに思考し、いかに描くか。漱石の作品が今なお新しいのは、それらが極めて高い次元で達成されているから。
どれだけ読み込んでも、常に新たな発見があります。
2010年3月25日
久々に夏目漱石の「草枕」を読んでいたら面白い箇所に気づいたので転載。ちなみに漱石は著作権が消滅しているので平気。以下転載。
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世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。
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以上転載でした。明治の世から、このあたりは何も変わってませんねぇ。「アレのことか」と思い当たる人も多いのでは。
それにしても漱石の文章はいつ読んでも良い。こういう文章を"芳醇な"と形容するんです。
元々小説というのは――、というか、芸術というものを構成する要素というのは、つまらないものです。このつまらないものを、「いかに面白く魅せるか?」と試行錯誤した果てに、芸術というものができあがる。
漱石の文章というのは、これを極めて素朴で、単純で、ストレートに達成している。これがすごい。
積み上げられた言葉の一つ一つはとても平易で簡素なのに、並べられた配置が描く軌跡が天を駆けている。こういうのを「言葉の選び方が良い」と言います。
たとえば「吾輩は猫である」なんか、描かれているのはつまるところ苦沙弥先生たちの日常風景。苦沙弥先生は別に天才でも変人でもないただの凡人であり、彼らの毎日などそもそも面白いわけがない。
それでも「猫」は他に並び立つものがないほど面白い。これこそ言葉の持つ力であり、小説というものの醍醐味。
いかに見、いかに思考し、いかに描くか。漱石の作品が今なお新しいのは、それらが極めて高い次元で達成されているから。
どれだけ読み込んでも、常に新たな発見があります。
2010年3月25日
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