「武」が意味するもの
朝青龍についての大島巡業部長の談ですが、ストレス障害を「汗かけば治る」とは、なんとも体育会系らしいというか無茶な話です。それで治るんなら、医者は苦労しない。
心の病なんだったら、然るべき手段と手順で治療が必要でしょう。そのためにモンゴルに帰らにゃどうにもならんというなら、帰してあげれば良いんじゃないでしょうか。
ただし、その時問題になるのは、「それで本当に横綱と呼べるのか?」という話。
私は武道経験者(剣道と少林寺拳法)なので、どうしても視点は武道寄りになる。スポーツではなく、格闘技でもなく、武道のそれ。
特に少林寺拳法では「力愛不二」と言って、力と心はそれぞれが調和してこそ揺るぎないものになるのだから、バランスよく修練し育てていかねばならないと教えます。力だけでも、心だけでも、真の強さは得られないという考え方。開祖・宗道臣の有名な言葉に「正義無き力は暴力、力無き正義は無力」とある通り、どちらに偏っても武道家としては失格です。
翻って、朝青龍はどうか。明らかに力は凄まじい。歴代の横綱でも最強クラスでしょう。 全盛期の千代の富士か、あるいは北の湖に匹敵する猛烈な強さだと思う。
だが、心は足りない。気性が激しいことは心の強さではないし、他人に優しくできないのは器が小さい証拠でしょう。ましてや、謹慎くらって1ヶ月も経たないうちにストレス障害を発症しているようでは、お世辞にも精神力が強いとは言えない。
「悪いことして叱られたせいで鬱になったので故郷に帰らせてください」なんて、笑えない冗談にしか聞こえません。
技と体は最強でも、心はそれに追いつかない。おろそかにしてはいけないものが達成できていない力士を横綱として尊敬するのは間違っているでしょう。記録だけが重要な格闘技なら構わないと思いますが(ホントにまったく構わないと思います)、こと武道においては、やはりそれではいけないと思う。
ましてや、日本発祥の武道における、おそらくは最古の歴史を持つであろう相撲のこと。心技体のすべてにおいて、最高のものを求められるのはいうまでもない。
もちろん、歴代の横綱すべてが、それを達成していたかといえばそうではない。二代目貴乃花について心が強かったというには躊躇しますし、引退後の曙が身体をシェイプしようとしなかったのは、過去の自分を否定できるほど己を律し得なかったゆえでしょう。双羽黒の狼藉ぶりについてはいまさら書くまでもない。彼らもまた、そういう意味で横綱にはふさわしくなかったのだとは思う(でも、現役中の曙は横綱として立派だったと思います。それは否定しない。引退したあとがあまりにも…)。
しかし、だからといって朝青龍もそれで良いなどと言えるわけがない。間違っているものは間違っているのだから、更正するなりなんなりする必要があるし、周囲もさせなければいけない。
もう横綱になってしまったものはしょうがないから、せめてこれからは在るべき姿であるように、本人も周囲も一層の努力が必要です。
それができないのであれば引退するか、あるいは、相撲協会および横綱審議会のトップ全員クビ覚悟で、朝青龍の番付を前頭くらいまで戻してはどうでしょう(あり得ないと判ってて書いてます)。
帰る必要があるなら帰らせるべきだとは思うし、それについて止めるつもりは全くない。でも、その代わり今の地位は返上してもらいたい。本当に故郷に帰りたいのなら、そのくらいは覚悟してほしい。逆に言えば、せめてその瞬間だけでも力士としての誇りを持ってほしい。
国技だからではなく、武道として在るべき姿であってほしい。そう思います。
ただ、この問題について、私は朝青龍がいちばん悪いとは思わない。
諸悪の根源は、相撲協会と高砂親方にこそあると思う。あと横綱審議会。彼らこそ、真っ先にトバされるべきでしょう。
強いからという理由で不祥事続きの力士に強く出られない相撲協会。正しく指導できない、しようとしない高砂。問題があると判っていて横綱免許を認めた横綱審議会。全員、責任重大と言うことで、現メンバーを刷新するのがスジです。
己というものにほんの少しでも誇りを感じているのなら、そうできるはず。それができないのであれば、彼らもまた、武の道から外れた脱落者に過ぎないということ。不祥事を起こした朝青龍を責める資格はないと思う。
――「武」という字は、「二つの戈(ほこ)を止める」と書き、本来は「争いを止める」という意味を持ちます。力、技、そして心がこの文字に宿るのは、それ故でもある。
暴力に対抗できる力と技、そして平和を望む心。これらの調和が武道の真髄であり、武道家の誇り。
今日の相撲界には、この文字の意味をもう一度考えてほしいと、切に願います。
2007年8月8日
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